君を――したい

07-3


 扉の閉まったエレベーターを、愕然(がくぜん)と見つめる。

「研磨!」

 黒尾君が扉を両手で引き開けようとするが、ピクリともしない。
 バッと、扉の上にある階数表示を見やる。

 8………7…6、5、4、3、

(速い!?)

 階数を示すランプは、通常の速度よりも速い。
 不安が一気に押し寄せる。

「くそっ!」

 黒尾君が床を蹴って走り出す。
 エレベーターとは反対側の廊下に、階段が見えている。
 階段でエレベーターを追おうというのだ。

「私も行く!」

 彼を追う。
 廊下を走る。不揃いな2人の足音が響く。

(……まずいっ! おいて行かれる!)

 男女差に加えて年齢差もある。
 そもそも、足の長さも体力も彼には及ばない。
 当然、後から走り出した私が、彼に追いつけるはずがない。
 みるみるうちに距離がひらく。

 階段を降りようとした時、
 ……すでに黒尾君の姿は、なかった。


  *  *  *


 薄暗いコンクリートの階段。
 踊り場には小さな窓。
 そこから見える空色が、じきに夜が来ることを告げている。

「……もう、こんな時間なんだ」

 ぽつり、と漏らした言葉が小さく響く。
 少し、肌寒くなってきた。

(早く……黒尾君に追いつかないと!)

 足下に気をつけながら、足早に階段を降りていく。

(あれ? そういえば、どうしてこんなに暗いの?)

 ふと、頭上を見上げる。
 蛍光灯の欠けた照明器具が、静かに私を見下ろしていた。
 天井の角には大きな蜘蛛の巣まで張ってある。

(どうして……まだ人が住んでるんじゃ……)

 これではまるで、長い間、人の出入りがなかったみたいだ。

 ぶんぶん、と頭を左右に振って嫌な予感を吹き飛ばす。

「黒尾君に追いつく。研磨と合流する」

 今すべきなのは、この2つだ。
 余計なことを考えちゃ駄目だ。
 気にしちゃ駄目だ。気づいちゃ駄目だ。

(シャキッとしろ!)

 ぎゅっと拳を握る。
 わずかな手の痛みが、恐怖をごまかしてくれる。
 少し震えた足で、駆け出す。

 カッ、カッ、カッ、カッ……

 小刻みに早く響く足音。
 片手を手すりにやって、速やかに踊り場を折り曲がり、降りてゆく。


 4階ほど降りたところで、足が止まる。

「え」

 目の前の光景に、思わず口をポカンとあける。

 タンスや本棚、冷蔵庫などなど、それらがバリケードのように積み重なって、行く手を阻んでいた。
 積み方からして、明らかに「人を通さない」ことを意識して置かれている。
 乗り越えることも、押しどけることもできない。

(……どうしよう)

 このバリケードを黒尾君は直接、突破して行ったとは考えにくい。
 彼は何処へ行ったのか……。

(……どうしよう)

「黒尾君!」

 腹から声を出して叫ぶ。
 足音がいやに響くのだから、声も届くはずだと思った、

「………………」

 返ってくるものは、何もない。
 ますます心細く、不安になる。

(…………静かすぎる)

 外から見たこの建物は8階。
 半分は降りてきたから、あと3、4階程度。

(これだけ叫んで、黒尾君や研磨の声も足音も聞こえないなんて……)

 ざわざわざわ、と冷たいものが足下から背中を這い上がる。

(こんなの……)

 おかしいと思ってしまった。
 この状況は、おかしいと、思ってしまった。


 いくら研磨がとろくても、あのタイミングでエレベーターの扉が閉まるなんて、おかしい。
「人が住んでる」とおじさんは言ってたのに、私達の足音ばかりで、人の気配が欠片もないなんて、おかしい。
 これだけ叫んで呼んで耳を澄ましても、2人の声も足音も聞こえないなんて、おかしい。


 一度、おかしいと思うと止まらなかった。
 ずっと、気づかないフリをしていた。……余計に怖くなってしまうから。

(どうしよう。”一人”は、怖い)

 改めて、自分の状況が良くないことを自覚する。
 私は――今、一人ぼっちだ。

 以前、研磨に言ったことが思い出される。

(”一人”は……狙われやすい)

”一人”は、それだけで危険だ。物理的にも、精神的にも……。

(とりあえず、早く1階に戻らないと)

 立ち止まっていても、しょうがない。
 降りてきた階段を戻って、他のルートを探さなくては。

 くるりと踵をかえし、一段踏み出す。
 足下に影。

 見上げると、逆立った黒髪に目つきの悪い男の子。
 ニッと笑みを浮かべた黒尾君が、私を見下ろしていた。


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