君を――したい

07-6


 黒尾君に手を引かれて、階段を上がる。
 その手はしっかりと私を掴んでいて、離せそうにない。

「そんなしっかり繋がなくても、私、大丈夫だけど……」

 まるで「逃がさない」と言っているようで、怖かった。

「だーめ。はぐれたら危ないぞー」

 ニッと歯を見せケラケラと笑う。
 不気味なこの団地で、彼の無邪気な様は浮いて見える。
「”何が”危ないの?」とは聞けなかった。

「えと……何処に研磨はいるの?」

 私は、何処へ連れて行かれようとしているのか?

 ふいに彼の目が細く、冷たい色を帯びた。

「屋上」

 ――ドッ、心臓が跳ねる。
 黒尾君の話が思い出された。

『……屋上に白い人影が現れてスッと消えたんだと……』

 手足が冷たくなっていくような気がした。
 
 寒くもないのに、歯がカチカチと鳴りそうになる。膝も震えそうだ。
 けれど、彼が私の手を引き続ける限り、私の足は屋上に向かうのだろう。

「……本当に? 本当に研磨はそこにいるの?」
「おいおい。疑り深いなぁ。
 はじめから、そこに行くって言っただろ? 研磨のヤツ、入れ違いで上に行っちまったんだ」

 確かに、屋上に向かうつもりで来た。けれど、

「……だって」

 ――時間が合わない。

 繋いだ手に、力が込められた。
 静かに前を見据えた横顔は、どこか憂いを帯びている。
 そんな表情をする黒尾君を、私は知らない。

「俺さ。こうやって手を繋いで歩くのに、憧れてた」

 彼は突拍子のないことを口にしながら、私を上へ上へと連れて行く。
 登ってきたはずの階段が、消えていくような感覚。
 もう、戻れないような気になる。

「俺たちは手なんか繋がない。繋げない」

 繋いだ手に痛みが走る。
 少しだけど、爪が食い込んでいた。

「人の手は、あたたかくて優しい。よく知ってる」

 これは、私へ話しかけているのだろか?
 自身へ聞かせるための言葉に聞こえた。

「仲の良い人同士は、手と手を繋いで帰るんだろ?」

 何を言いたいのかわからない。
 嫌な予感が、押し寄せてくる。
 目の前の黒尾君が、得体の知れない”何か”な気がしてならない。

「……そう……だから、早く帰らないと」

 恐怖に背を押され、もう片方の手で繋いだ手を剥がそうとした。

「何処へ?」

 歩みが止まる。
 目の前には屋上へ出るらしい扉。
 彼は振り返り、静かに私を見下ろす。

「お前。”何処”へ帰る気だ?」

 聞き慣れた黒尾君の声が、鋭く刺さる。

「そんなの」

”自分の家”に決まっている。

「馬鹿だなぁ」

 憐れみとも蔑みとも、とれる表情で笑う。

 ――ガチャッ

「やっ!」

 素早く扉を開けると、力任せに引っ張り込まれた。
 ――もう、逃げ場はない。


  *  *  *


 視界に広がる空は、端に夕日の面影を僅かに残して、夜を迎えていた。
 ぼやけた月は、やがて暗闇に映えて光り輝くだろう。
 星は、まだ見えない。

 後ろで扉が閉まる音がした。

「研磨、いないんだけど?」

 屋上には何もない。
 ぐるりと周囲を囲む、赤茶色に錆びたフェンスがあるばかり。
 すぐ傍に他の2棟が見える。明かりの点いた部屋は、ない。

「先に帰ったのかもな」

 飄々(ひょうひょう)と言ってのける。嘘くさい。

「……追わないの?」
「急ぐこともないだろ」

 黒尾君が、研磨を追わないはずがない。
 いつも過保護なくらいに傍にいた。
 私と研磨が2人でいれば、笑顔で間に割り込んできた。

(……うっとうしい、くらいに)

 いつも、仲良く並んで歩く2人を、私一人、3歩遅れて歩いていた。
 2人の背中を眺めて歩くことが、どんなに多かったか。

「嘘ばっかり」
「何が?」

 彼はニヤニヤと笑う。
 それが私の神経を逆撫でする。

「はじめから屋上に研磨はいなかった。あんたも……黒尾君じゃない」

 ずっと、目の前の”黒尾君”に違和感を覚えていた。
 口にしなかったのは、研磨の無事を確認したかったから、それに、離れる隙を窺ってたから 。

(……もう、いい)

 逃げられない場所に来てしまった。大馬鹿だ。
 もう、様子を窺う真似なんかしても意味がない。

「ひどいなー。俺の存在、全部否定すんのかよ。
 俺は『黒尾』だ。……嘘じゃない」
「黒尾君は……」

 手は繋がれたまま、やはり外せそうにない。
 ぎゅっと、もう片方の拳を握る。気力を振り絞る。

「黒尾君は、研磨を大事に思ってる。
 研磨も黒尾君といる方が良いに決まってる。私がどんなに追いかけても、埋まらない距離がある」

 ずっと黒尾君が羨ましかった。

「今まで築きあげてきた信頼も絆も、私では及ばない。
 ……これからも、ずっとは築かれていく。私は追いつけない」

 キッと睨み挙げる。
 目の前の『黒尾君』の姿をした”何か”を。

「黒尾君は、こんな場所に研磨を一人、放っておかない。
 私なんか構わずに走り出す。それが私の知ってる黒尾君。
 ……だから、あんたは黒尾君じゃない」

 目の前の彼が「偽物だ」と胸を張って言える。
 けれど、自分が惨めだった。

「誰かに必要とされたい」と、ほざく気はない。
 ただ、私一人、何処にも馴染めていないようで、やはり寂しかった。

 ――ガタンッ

 耳をつんざくほどの音が響く。
 振り返ると、閉じていた扉が開いている。
 出入り口に立っている人影。ツンツンと逆立った黒髪の男の子。

「コラー! なーにオバケにホイホイ付いて行ってんだ!」

 目をつり上げた、黒尾君が立っていた。



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