君を――したい
07-8
一陣の風が吹いた。
突き抜けるような風。
屋上の扉は、乱暴に開け放たれた。
余韻を引き連れ、男の子が私の元へとやってくる。
――黒尾君だ。
彼の目つきの悪さは相変わらず。
背後に夕闇従えている光景は、さながら『悪役の真打ち登場』。
場違いにも、私の口から笑いが零れる。
(だって、笑ってしまう。デキスギだ)
逃げ場がない。追い詰められた。
そんな時、ヒーローは決まって遅れてやってくる。
見た目は悪役でも、今の黒尾君はヒーローだった。
(どうしてだろ、笑ってる。
あんなに怖かったのに、もう……怖くない)
睨みを利かせながら、カツカツと黒尾君が近づいてくる。
その突き刺すような目を、私はよく知っている。
(これが”黒尾君”だ。間違いない)
手を伸ばせば届く距離で、彼は足を止めた。
「どー見ても偽者だってわかるだろ! 離れろっ!」
私と”偽者”とが繋ぐ手を引きはがした。
黒尾君の剣幕に負けたのか、私の手を繋いで離さなかった彼は、あっけなく手を放した。
そして、つまらなそうに黒尾君を見据える。
「乱暴者」
ぽつりと呟かれた言葉を、黒尾君は拾わなかった。
私をチラリと一瞥すると、彼は”偽者”に向き直り笑みを浮かべた。
……恐ろしく冷たい目で。
「うちの子になんの用ですかー? 勝手に連れてかれると困るんですよねー」
ピシッピシッと、周りの空気が凍っていく気がした。
とても身動きがとれる状態じゃない。
恐る恐る”偽者”の様子を伺う。
彼は面倒くさそうに頭をかくと、息を一つ零した。
「帰ってくれてよかったのに。僕、君に用なんてないしさ」
演じる気がなくなったのか、口調も雰囲気もガラリと変わった。
それでも、姿は黒尾君のままで正体を晒す気はないらしい。
口を尖らせて、黒尾君を迎えうつ。
「君だって、どーでもいいことでしょ?
もう一人の子も待ってるんだし。手でも繋いで帰ってあげなよ。
……君らは、夜は出歩いちゃ駄目なんだろ?」
シッシと手で追いやる素振りを見せた。
黒尾君の眉が、僅かに歪む。
「そーだな。急いで帰らないといけない。『3人で』だ。
俺たちはいつも3人一緒だ。この大馬鹿者を置いて帰るわけにはいかねーよ」
後ろ手で、私に下がるように促す。
私は黙って頷くと、一歩、二歩……と後ろへ下がった。
黒尾君も、私が下がるのを確認して後退する。そう、ここにはもう用はないのだから。
「違うね」
鋭い否定に足が止まる。
”偽者”が皮肉げに笑う。
「”2人”と”1人”だ。
”3人”にはなり得ない。今も昔もこれからも」
細められた目が私を捉える。同意を求めるように。
ドクンッと心臓が跳ねた。
単なる挑発と、笑い飛ばせない不安が押し寄せてくる。
手を伸ばせば届く距離に黒尾君がいるのに、どうしてだか遠のいていく。
(……私一人だけが、遠い)
「。バケモノの言うことに耳を貸すなよ」
わしゃわしゃと乱暴に頭を掴まれる。
「わかってる」
考えるより先に返した言葉が、戸惑いを振り払う。
(そうだ。研磨のところへ帰ろう)
不安に思うことなど、何もない。
「帰ろう」
”偽者”を見据える。「邪魔しないで」と。
暫し、睨み合いが続いた。
ややあって、彼は「降参」とばかりに両手をあげた。
「あーあ……面倒くさくなった。残念。諦めるか」
彼は両手を頭の後ろで組んで、くるりと背を向けた。
空を仰ぎ見て、静かに目を閉じる。星が幾つか姿を現していた。
「早く行きなよ。僕らにはお楽しみの夜だけど、君らには危ない」
風が吹いた。私達を薙ぎ倒さんばかりの勢いで。
堪らず目を瞑り、両手を顔の前で構えてやり過ごす。
ゴオォォ……と、風の音が耳をかすめていく。
「オヤツ、美味しかったよ」
すぐ耳元で声が通り過ぎていく。
目を開けて、声を追う。
屋上の出入り口を、”何か”が通り抜けていった。
それは一瞬のこと。
……長く黒い尻尾が見えた気がした。
* * *
風がおさまった。
辺りを見回しても、私と黒尾君の二人だけ。
夜空には一つ、また一つと星々が顔を出している。
「消えちまったな。ま、今回は見逃してやる」
両手を腰に添え、黒尾君は偉そうに笑う。
ふと、目がかち合って、何だか気まずそうに目を逸らした。
「あー……よかったな。いや、俺が……、あ」
整理されてないまま話し出したかと思うと、何やら思い出したらしい。
キュッと眉間に皺を寄せて、私に近づく。握り拳まで作って。
「な、なに?」
一歩、後退って問いかける。
殴られるかと、ヒヤリ。
――コツン
額を軽く叩かれた。
ノックでもするようにコンコンと。
「頭の中身が空っぽだ」と言いたいんだろうか?
(……失礼な)
「おーい。この頭の中まで届いてるかー?」
「ちょっ……やめてよ」
コンコン、とノックは続く。
手で払いのけるも、軽々かわして額を叩いてくる。
「お前さ。不器用でできないこと山ほどあんだからさ、すました顔してんなよ。
普段から、もうちょい素直さと言うか、かわいげというものをだな」
コンコン、コンコン、
一体、何の話をしているのか。
そもそも、この状況で話を聞かせる気はあるのだろうか。
私が両手で必死に防御態勢をとっても、涼しい顔で攻撃を当ててくる。
「それに、1に研磨。2に研磨。3、4も研磨で5も研磨って……。お前、研磨の母親か? 俺より1つ下のくせにオバサンくせー」
コンコン、コンコン、
(い、いい加減に……)
「もっとこう『黒尾君かっこいい!』とか、ガキらしくはしゃいでみろよ。そしたら俺も、取っつきやすい。そーだ。よし、言ってみろ」
コンコン、コンコン、……バチン!
堪忍袋の緒が切れた。
怒りに任せて、黒尾君の手をはたき落とす。
「こぉんの! いい加減にしろぉぉぉ!」
もう片方の手がいつの間にか拳を作っていた。
黒尾君の腹めがけて、下から振り上げる。
「馬鹿クロぉぉぉ!」
彼の目が見開かれるのに気づく。
私は「しまった」と焦るが、もう遅い。
「いいじゃねーか」
勢いづいた拳は、両手で難なく止められた。
ニヤァと笑われ、居心地が悪い。
肩を落とす。
戦意喪失と見て取ったか、黒尾君は手を離してくれた。
「それくらいの方が、わかりやすい」
黒尾君のまとう空気が和らいだ気がした。
「さてと。研磨も待ってんだ。急いで帰るぞ」
彼は屋上の出入り口に足を向け、ふと、立ち止まって振り返る。
「ほら。次は、はぐれんなよ」
世話のかかる兄弟の手を引くように、私の手を掴む。
返答を待つ気なんて、サラサラないらしい。
「よっし。行くか」
ぐんっと手を引いて屋上を去る。
歩くペースは速く、小走りになる
(黒尾君らしい)
握った手は心強い。
暗闇が続いても、もう怖くない。
* * *
建物の出入り口。
角(すみ)の方で何か動いた。研磨だ。
ゲーム機のライトを下から受けて、顔が青白く暗闇に浮かんでいる。
研磨とわかっているとはいえ、ホラーな光景だった。
「おいコラ研磨。目に悪いぞ」
黒尾君の声に、顔をあげた研磨と目が合う。
じっと見つめられる。
「ごめん。心配かけた。帰ろうか」
なんだかんだと、はぐれて迷惑をかけたのは自分なので、申し訳ない気分になってくる。
けれど、ずっと「早く帰ろう」と言っていた研磨が待っていてくれたことが嬉しい。
両方が入り交じって、なんとも言えない顔になる。
「ん。よかった」
立ち上がってズボンを払う。
ふと、黒尾君と繋いだ手に研磨は目を落とす。
「……よくわかんないけど……よかった」
「いやこれは……」
(忘れてた)
急いで手を離そうとするも、黒尾君にしっかりと握られて外れない。
「ちょっと、もう離しても……」
「駄目だ。オバケにホイホイ付いて行くような馬鹿を、こんな所で野放しにできるか」
カッと見開かれた研磨の目が怖い。
この薄闇の中、目が光ったんじゃないかと錯覚するくらい、射貫くような目で見てくる。
「……付いて行ったの?」
ジッと見つめてくる。
普段、顔を会わそうとしないくせに、こういう時は穴が開くんじゃないかというくらい捕らえて放さない。
嘘や誤魔化しも、きっと見破られる。
(苦手というか……慣れない)
背中を汗が伝う。
どう返そうか悩んでいると、研磨は側に寄ってきて空いてる手をとった。
「えーと……研磨?」
「家まではこのままだから」
研磨から手を繋いでくれることはなかったから、とても嬉しい。
けれど、左右を黒尾君と研磨に固められては、まるで連行される囚人のよう。
……正直、複雑だ。
「いや、これは歩きにくい、し……」
抗議の声が尻すぼみになる。
両方から、強く握られ、貫く目で見られた。
挟まれて、気づかされる。
目つきの悪い黒尾君も、目を合わせない気弱な研磨も、眼力が普通の人より、うんと強い。
二人がかりでこられると、本当に敵わない。
しぶしぶ、2人に促されるまま歩く。
ふと、丈の長い雑草ばかりの花壇から、ガサガサと音がした。
見れば何匹かまだ幼い子猫が顔を覗かせて、様子を伺っていた。
「あ、かわいい。何匹いるんだろ?」
思わず足を止める。
「4匹だよ」
「へー。流石、研磨。よく見えるな」
すかさず答えたのは研磨だった。
この薄闇の中、随分とよく見えるらしい。
そして、私を捕らえて釘を刺す。
「もう、あげちゃ駄目だよ」
唐突にそう言うものだから、なんのことかわからない。
「エサ、あげちゃ駄目」
「あー……そういえば、以前、野良猫に持ってきたオヤツをあげてしまったことがあったっけ」
あの時も、研磨に怒られてしまった。
「体に悪いとか、野良猫が増えるからとか、色々あるけど……」
研磨は茂みにいる猫を見据えて言った。
「一度、知ってしまったら『もっと』って思うから、駄目」
ぐいっと引っ張って、歩みを促す。
「帰るよ」
「おー。そうだな。遅くなっちまったし、怒られるかもな」
両側から促されたら、歩き出すしかない。
(うん。帰ろう)
背中に刺さる幾つもの視線は、知らない。
2人に引かれて歩く。
ふと、黒尾君を見上げる。
(追いつく必要なんて、何処にもなかった)