隣のあいつは憎いヤツ
喧嘩上等
「……ジロー」
ポツリと呟く私に、円堂君が「知り合いか?」とたずねてきた。
答えようとした時、何を思ったか、あのバカは橋の上から飛び降りてきた。私たちの方に向かって。
……馬鹿じゃないの!
軽く砂煙が舞う。
私のすぐ前に、馬鹿は立っていた。やたら偉そうに腕組みまでしている。
ちなみに、私は度肝を抜かれて尻餅をついていた。
自然、ヤツが私を見下ろす形になる。
気に入らないので、急いで立ち上がり、ヤツとの距離をとる。
てっきり私に何か嫌みでも言いに来たのかと身構えるも、ヤツの鋭い視線の先には円堂君と風丸君がいた。
「まるで幼稚園のお遊戯だな」
そう一言呟くと同時に、走り出す。……早い!
円堂君の足下にあったサッカーボールが掠め盗られる。
風丸君の肩を掠め、ヤツはそのまま走る。
ゴール目前で足を止め、ヤツはゆっくりと振り返った。口元に余裕の笑みを浮かべながら。
「くっ!」
円堂君がボールを奪い返しに走る。
だが、
「遅いんだよ!」
力強く蹴られたボール。
その行方はゴールではなくて……。
「円堂!」
「円堂君!」
ゴールに向かうと予測されたボールは、円堂君のお腹に命中していた。
私たちの悲鳴とは裏腹に、佐久間次郎は楽しそうに笑い声をあげた。
事故じゃない。意図的にしたものだった。
お腹を抱えてうずくまる円堂君に、私と風丸君は駆け寄り、声をかける。
「……だ、だいじょうぶだ」
どこが大丈夫だというのだろう。
怒りを抑えられず、私は佐久間次郎に詰め寄る。
「ちょっと!どういうつもり!」
「見てわからないのか?わざわざサッカーとは何か教えに来てやったんだ。こいつら、まるでわかっていない。こんな茶番。サッカーに対する侮辱だ!」
迷いなく全力で蹴られたボール。
始めからゴールを狙う気なんてなかったんじゃないだろうかと感じた。
「……あんた。頭おかしいんじゃないの!」
怒りに我を忘れて手を振りあげる。
あの無駄に整った顔に、一発お見舞いしてやる!
「……っ!」
頬に当たる直前で手首を捕まれた。
そのまま腕をもぎ取る気かと思うほどに、佐久間次郎は手に力を込める。
私を見つめる彼の目は、今までに見たことのないほど、冷ややかなもので、凍り付きそうなほどにゾクリとする。
「……何を、する気でいた?」
さらに上へとねじ上げられて、痛みが増す。
「痛い!痛い!放してっ!」
「俺を、ひっぱたこうって?……へぇ」
すぅと細められる目。
膨れ上がる恐怖。
さらに、力を込められ尋常じゃない痛みに、涙がこぼれた。
ふと、ヤツの力が緩くなる。
佐久間次郎の腕を、風丸君が掴んでいた。
その表情は、いつも円堂君と一緒にいる時の風丸君からは想像できないくらい、怖いものだった。
「やめろ」
すると、ヤツは不愉快そうに眉を寄せた。
「…………お前には関係ない」
冷たく言い捨てると、再び手に力を込め始めた。
私は耐えきれず、すがるように風丸君に助けを求めた。
「……風丸君!助けて!」
「…………!」
嘘のようにパッと放される手。
重力に従い私は地面に足をつき、血の気の失せた手をもう片方の手でさすった。
見上げれば、あの冷たい瞳に驚きの色が浮かんでいた。
そして、ヤツの視線が風丸君の方へと移る。
「…………へぇ。お前が『風丸』か」
その言い方に、私はすぐにピンときた。
……コイツ!どこまで知ってるんだ!
源田君から、一体どこまで聞き出しているんだろう。
コイツのことだから、今すぐにでも余計なことを口走りそうだ。嫌な汗が背を伝う。
迂闊に口を開くわけにもいかず、口を噤んだまま、私はことの成り行きを見守った。
「だったらどうした。お前には関係ない」
風丸君の返しに、ヤツは不愉快を露わにした。
「ああ、関係ないな。……ただ、趣味が悪い」
一瞬、私に視線を投げた。体中が一瞬で熱くなる。
風丸君には意味が分からなかったようでホッとする。
けれど、悪口を言われたことは明らかなので、二人の間にピリピリとした空気が溢れ出る。
「お前が誰かは知らないが、円堂に謝れ」
「ハッ!何故だ?サッカー部員のくせにボールをとれない間抜けに、何故謝る必要がある?自分の技量が足りないから、こんな情けない結果になるんだ。……自業自得だろ?」
口元をつり上げて笑う様は、どこぞの悪役のようだ。
「お前」
ヤツの顔から笑みが消えた。ゆっくりと風丸君に一歩踏み出す。
予感が全身をかけ巡り、警鐘が鳴り響く。
「気に入らないんだよっ!」
振り上げられた足は、風丸君の顔を狙っていた。
「風丸君!」
飛び出したいのに、恐怖という金縛りが、私の邪魔をする。
ヤツの蹴りは素早く、避けられない!
……そう感じたが、風丸君の素早さは、ヤツの上をいった。
流れるような無駄のない動作で、佐久間の蹴りをかわした。
なびいた青髪が綺麗だな。なんて、こんな状況なのにそう感じるくらい。彼の動作は優美なものだった。
そのまま上体を落とすと、佐久間の軸足に足払いを仕掛けた。
「なっ!」
予想外だったらしく、たやすく安定を奪われ、佐久間次郎はその場に倒れ込む。
風丸君は佐久間の前に来ると、見下ろして言った。
「喧嘩を売ったのはそっちだ。謝りもしない。また喧嘩を仕掛けてくるのなら、これくらいされて当然だ」
それだけ言い放つと、くるりと背を向けて、いまだお腹を抱えてうずくまる円堂君の元へと戻った。
「すまない。俺は円堂を家まで送っていく。お前は大丈夫か?」
そう話しかけてくる風丸君は、私の知っているいつもの風丸君で安心した。
「大丈夫。円堂君をよろしくね」
「あぁ。それじゃ。またな」
風丸君の肩を借りて、円堂君は家へと帰っていった。
遠のいていく二人の姿を見て、なんだか「ごめん」と謝りたくなった。
悪いのは全部、この馬鹿なんだけど。
目の前に倒れたままの馬鹿が一人。
別に気を失ったわけじゃない。ぱっちりと目を開けて起きている。
何故、起き上がらないのか。きっと言われたくないだろうけど、私にはわかった。風丸君もわかっていた。
足払いを食らった時に、変に庇おうとした足が痛むのだろう。
「ほら。もういい加減、頭も冷えたでしょ。いつまでも寝てないで上半身くらい起こしなさいよ」
「……うるさい」
……拗ねてる。
それはもう見事にやられたものだから、拗ねてる。
こうなると、コイツは本当に面倒くさい。
「ほら!早くしないと日が暮れるじゃない!」
「うるさい!うるさい!うるさい!」
「うるさいのはどっちよ!置いていくわよ!」
「あぁ!ほっとけよ!」
「なぁんですって!人が手を貸してあげようって言ってるのに!」
「頼んでないだろ馬鹿!」
ぷっつん。と何かが切れた。
本当に置いていこうかと思ったが、さすがに放っておけない。
無理矢理ヤツの体を起こして、私の肩に腕を回させる。
「いいから!ちゃんと立ってよね!か弱い乙女にはアンタ重すぎるんだから!」
「誰が、か弱い乙女だ!」
なんて言いながら、一応立ってくれた。
ふと、ここで違和感。
「……背、伸びたんだね」
初めてあった頃は、私の方が背が高かった。
いつの間に抜かされたんだろう。
「…………気づくのが遅いんだよ」
色々と言ってやりたいこともあったけど、今はとりあえずこのバカを家まで運んでやることを優先した。
少しでも機嫌を損ねたら、また厄介なことになる。
帰り道、さっきまでの勢いが嘘のように、おとなしくしていた。
口数も少ない。
機嫌が悪いと言えばそうだけど、だいぶ落ち着いてきたところだ。
どうして、黙っているのだろう。
ふと、頭をよぎった疑問。
「ねぇ、ジロー。どうして河川敷にいたの?何か用事があったの?」
帝国学園までの通学路からは外れている。
何しにきたんだろう?
まさか、わざわざ喧嘩をふっかけに来たわけでもあるまい。
なんとなく口にした疑問。
それに言葉の返答はなかった。
かわりに、私の頬をつねってきた。
「い、いひゃい!」
「うるさい」
もう、本当に佐久間次郎という男は面倒臭くて、おまけによくわからない。